R・スペリー博士からのメッセージ part 2

前にR・スペリー博士からのメッセージというタイトルで書いてからもうすぐ11年経つ。そしてR・スペリー博士からのメッセージの広告を始めて見てからたぶん29年(今調べてみるとこのNTTデータ通信株式会社の広告は1992年にTOKYO COPYWRITERS CLUB部門賞を受賞していた。

そしてこの広告のコピーライターはグラフイックデザイナー誰でも知っているサンアドのコピーライターであった一倉宏さんということがわかった。11年前のブログにコメントのこしてくれたのは一倉宏さん?そして一倉宏さんはその後、中畑広告制作所に。

ここからはとよもの自動回想モードのスイッチが入ってしまった余談です。

とよもが大阪でグラフイックデザイナーしている時、奥村靫正さんが好きでTHE STUDIO TOKYO. JAPANに面接に行った。奥村靫正さんは、アートの作品をたくさん持って行った私に、これを使って自分で広告作って作品にしてたらどうかな。と提案してくれたり、うちではあなたくらいの経験者はいらないけど、よかったら紹介状書くから中畑さんところに行ってみたら?とか、すごい親切に話してくれた。とよもは超緊張して奥村さんの顔も見れず下向いたまま、奥村さん靴下サンローランや。。。とか考えてた。

その時は自分はグラフイックデザイナーなので、中畑さんところに行ってみたら?と言われても、えっ?としか思えず諦めてそのまま、大阪で仕事を見つけた。そのあとオーストラリアに移住したくて、宣伝会議(広告専門雑誌)で杉山恒太郎さんが、カンヌ映画祭でオーストラリアのサーチアンドサーチの、クリエイティブディレクたーのボブさんと君のジャケットもコムデギャルソンだよね?とかお話ししたと書いているの見て、いきなり杉山恒太郎さんに電話して、宣伝会議の文章読みました。私はオーストラリアでグラフイックデザイナーとして働きたいので、ボブさんに紹介してください!と無茶なお願いもした。。。

杉山恒太郎さんは、君が僕の妹とかだったら紹介もできるだろうけど。。。と困られていて、ねぇ本に書いてあることが本当にそのままなんていうことは少ないんだよ、例えば椎名誠が本の中のああいう人物じゃあないということだよって。えええっ!と言葉をなくす私に、もしよかったら大阪電通の00さんという面白い人がいるから、紹介するから会いに行ってみたらとまで言ってくれた。でもこの時もオーストラリアのサーチアンドサーチの、クリエイティブディレクたーのボブさん以外見えてなかったとよもはそのまま何も行動しなかった。。。

こう考えたら、オーストラリア移住前に、すごいチャンス2つも逃してる。。。

すみません、話がえらくずれてしまったのでR・スペリー博士からのメッセージの広告に戻します。

自分が初めてこの広告を目にした時の衝撃と(こういう思想的アプローチが崇高=かっこいいように思えた)その広告をわざわざコピーして、オーストラリアに移住する時も大切に持ってきていて、何度も引越しを重ね結構なものを捨ててきた今でも、この広告のコピーは持ってることにはこれにはきっとすごい意味があるんや。

なぜまたR・スペリー博士からのメッセージを思いだしたのかというと。

とよもはオーストラリアでの3ヶ月にもなる厳しいロックダウンで、頭の中でいつも繰り返されるネガティブな妄想を何とかしたく、ヒプノセラピーを受けることにした。今は対面もできないのでZOOMで受けたけれど、思いの外すんなり事は運んだ。

そしてとよもは潜在意識の世界にちょい入って宇宙の果てに行ってから地球に戻って過去に傷ついていた自分の記憶を今の自分が『大丈夫やでもう心配することないで』って教えてあげた。それはなんていうか心にこびりついてたもつれてた糸を解くというより、ふっと消す感じ?潜在意識の掃除?

ここで、昔見た脳科学者、ジル・ボルト・テイラーの動画を見直す。左脳に血栓ができて機能しなくなり、右脳の世界、つまり宇宙的自分を体験してきた話。

ヒプノの前に、「君と逢える約束の場所」という映画を見ていて、それは細胞の一番小さい物質は素粒子説という仮説に基づいたストーリィだった。

とよもがずっと興味があった非二元の世界、私はいない、起こってることはただ湧いてきたストーリィ。これだけではなんのこと?自分いてるしと思うけど。これはジル・ボルト・テイラーのことから考えると非二元は右脳の世界に入ること。

というのは今の私たちの意識、日常の脳の動きに本気になることなく、右脳と左脳を行き来しながら、バランスとってもっと高い位置から自分を見よ、世界を見よ。あなたは過去や未来に左右されてストレス溜めてるけど、ほんまは素粒子でみんな一緒でいつも今にいてて、何の心配もないんやで。そういう気持ちでおったら絶対日常も変わってくるし、自分に何ができるかもわかってくるんちゃう?ということかな。

広告の他ヘッドコピーと締めの言葉をここにコピーしとくね。

R・スペリー博士からのメッセージは、『人類よ、頭脳に、自信と責任を持て』と、言っている気がする。

『新しい意識の考え方は、それぞれの矛盾しない世界観のなかで統合してゆけるとおもいます。また、それが望ましいことだと、私は思う』Roger Wolcott Sperry

人間は素粒子の集まり、宇宙的存在でそこから左脳により分離されてる感を持っているけど、右脳は宇宙に繋がってるからいつでもどこでも過去も未来もなくただい至福な今に漂う素粒子になれるんや。

こんなにもとよもの心の中に住まい続け必要な時にそのことをまた理解しなおさせてくれる力を持つ心の原石のような広告の文章をそこにそっと置いてくれてありがとう。一倉宏さん

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

おとなしい家畜とよも、荷物振り落として野生のロバになる!

数年前によく聞いてた、津留晃一さんの聴き物語、当時はうーんよくわからんってかんじやったけど、さっきもう一個聞いたら前よりよくわかったような。。。

問題は解決しなくてええねん

どんな自分でいたいかだけ考えればええねん

ここで、時間経過

智慧とは、世の中のあり方や現象の深い知識のことである。

4月からコロナ騒ぎで対面でレッスンができなくなった、日本のクンダリーニヨガの先生ゆきちゃん(シドニーで出会った友達)が、毎週クンダリーニヨガをzoomで教えてくれてる。

レッスン受け取ったひとはまた誰かに何かを与えられる時にあたえてねっていうコンセプトも見習いたいとおもい、やりたい!と思ってはじめた。しかし大昔にヨガを習ってたけどやめてからなにもしてないし、筋肉へにょへにょなとよもにとって、体に厳しい時ありあり、ゆきちゃんの飴と鞭に導かれ、毎回やりとげたことへの達成感までみちびいてもらい続けてた。

クンダリーニヨガってじぶんに必要なエネルギーを呼吸や体の筋肉やその動き?によって作り上げる、エコな自家発電みたいな感じかな。

最近はよく、好きなことしていい気分になるのが一番というかんじのことをyoutubeとかで発信してる人の話を聞いてたのでこのちょい苦しい時もあるクンダリーニヨガは果たして自分に必要なのかとかいう逃げ思考も出てきてたけど。3ヶ月弱続けてた。。。昔習ってたヨガはそのポーズと呼吸のことしか考えてなかったけど、クンダリーニヨガは自家発電からのじぶんのエネルギーを感じエネルギーが体という乗り物とつながってのろしみたいに天に昇っていくような。

クンダリーニヨガをしてると、とよもはどんどん嫌な自分がみえてきた。それをみつめてそのままうわぁーと思いながらも、大いなるものとの出会いのための旅をつづけた、そこにはやめときなはれ〜という魔物も出てくるし今つながった?という新しい自分との出会いもあった!

その最初のレッスンの時に

A Mangara Caran Mantraというのを教えてもらい、40日間毎日11分間唱える。これはなんかツボにはまってきもちがいい。なので毎週のクンダリーニヨガzoomレッスンが終わった今でも毎日つづけてる。

このマントラは、わたしたちはすべての瞬間に原始の核と始まりのエネルギーにつながっていますよ。なので疑念の雲を払いのけ高次の存在からの導き(これが智慧?)に心を開い敬意をあらわしましよう。というかんじかな。

原始からもともともってる智慧を覆い隠してる思考のほこりをはらいのけつづけていると。

そうやったんや

あかんあかん、でけへんでけへん、こわいこわい、みたいな強力な思い込みをいつも心のカバンにぎゅうぎゅう詰め込んで持ち歩いてるとよもがみえた、それらを手放す時が今や!!と気がつく

そこで今朝なんとなくROSEという歌を聴いてたら

It’s the heart afraid of breaking, that never learns to dance
It’s the dream afraid of waking, that never takes the chance

こわれるとおもてたらダンスは学べないよ(自分が壊れるくらいダンスを楽しまな!とよもの意訳)

目覚めること怖がってたら絶対チャンスはつかまれへんで。(そらそうや)

とよもはシッターのときにいつも、責任感からかこうなったらやばい!という悪い方向に想像を膨らませ、あかんあかんといつも犬猫達には自分のこころの安全という囲いの中だけで接してた。。。

何回も、心配ない大丈夫やと言い聞かせててもその裏には不安が張り付いてるから、すぐじぶんで囲いの中にはいってた、おとなしい家畜とよも。

ずっとその囲いの中から出られてなかったんやな。

もうサレンダー流れを信じてたゆたうのろしみたいに、任せる生き方にしよ。

そして今、ずっしり積み上げられた背中の荷物ふりおとした!

わたしはもう自由な野生のロバや、どんな自分でいたいかだけ考えればええねん。じぶんのできることでひとのやくにたてたらそれは最高。

ここでロバが笑いながら飛び跳ね踊るように走ってるのを想像して笑ってください。。そしてあなたも無いのにあるようにおもってた柵をけして、せなかの重たい荷物を今一気にふりおとしてみませんか?

わたしってなんだろう?

4月24日に、ノンヂュアリティのことを知って今日でちょうど5ヶ月。そのあと行ったシッター先の机の上にさりげなく存在した”I am that”という本を読んでみると。

「私は身体だ」という観念を超えていきなさい。そうすれば、あなたは時間と空間があなたのなかにあり、あなたが時間と空間のなかに在るのではないことを見いだすだろう。

わたしは体だとしっかり思っているなぁ。でも時間や空間がわたしのなかにあるという時のわたしは自我のわたしでなく”I am that”のthatかなぁ。

体がわたしでなebisu4かったらわたしは物質として存在しない意識だけということで、わたしはいないっていうんだなぁ。

その意識も、つぎになにを思うのかどんな行動したいと思うのが予測ができないから、そいうい意味で主導権がないから自分はいないということなんかなぁ。

今日は雨のなか散歩で、すばやく用をすまして家に戻るリース。でもそのあとすぐに晴れてきた。

ここで何気なく本棚にあるを見てたら、”生物と無生物のあいだ”という本があって、面白そうなのでよんでたら、

”肉体というものについて、私たちはみずからの感覚として、外界と隔てられた個物としての実態があるように感じている。しかし、分子のレベルではその実感はまったく担保されていない。私たち生命体はたまたまそこに密度が高まっている分子のゆるい『淀み』でしかない。しかもそれは高速で入れ替わっている、この流れ自体が『生きている』ということであり、常に分子を外部から与えないと、出ていく行く分子との収出が合わなくなる”。

個体としてとらえてた身体が、密度が高まっている分子のゆるい『淀み』とすると、わたしの身体も見えてるけどただの分子のよどみか。。。

インドの聖者がやってきた


朝起きたら、インドの聖者が語りだした。
昨日の夜に大和田菜穂さんの説明するノン•ディユアリティという考え方をYOUTUBEでみた。
世界は一つのエネルギーでできていて、そのエネルギーがいろんなものに形を変えて現れているだけ、思考は単なる言葉つねに変化するもので、それを現実として認識しているけど、ほんとうは感覚が言葉になっただけ、思考は変わらずおこるけどそれを自分に対して個人的に理解すると収縮=苦しみになる(これは今一般敵に人間がしていること)。
いままでよく聞いてきて、いまこことか、ワンネスとかとおなじことだろうけど、ノン•ディユアリティには、自分は存在しない、体と空間はつながったひとつのもので、それが形という岩礁で見えてるだけ、ほんとうは一つなのに、自分が一つの個として分離している感覚があるから、つねに何かをもとめるのであーるということらしい。
普通の考えでは、えっ!どういこと?自分は存在しない、イリュージョン?とおもうよねぇ。
でも、過去にかいたスペリー博士の言葉にも今みてみたら、同じような事が
博士からのメッセージは、意識についての新しい考え方から、この世界と人類についてを見つめ直すべきだ、というものだ。物質的な力、つまり分子や原子の働きからは、私たちの脳のモデルは描ききれない、それは部分のレベルであって、全体的レベルからの部分のレベルをコントロールする意識というものを考えなければならない、と博士は強調する。
私たちは、物理・化学的な力が自分のからだを活動させていると考えながら、一方で、意識が自分の行動を決めるとも感じています。『いままでの科学は、部分レベルの見方に片寄り過ぎていた。部分と全体とは、つねに相互関係をもつものでありながら。私たちの世界は、原子の物理学だけでなく、人間の批判的な価値観によっても影響を受けるのです』意識や価値観について語るとなると、哲学などの人文学に近づいてゆきますね。あるいは宗教にも。『新しい意識の考え方は、それぞれの矛盾しない世界観のなかで統合してゆけるとおもいます。また、それが望ましいことだと、私は思う』
博士のいまのお考えから、21世紀への希望をお聞かせください。『私たちは21世紀を守る目的で、科学に目を向けなければならない。この世界を保持し、より高め、破壊することなく、長期的に生命圏を進化させるようなガイドラインをつくること。意識とは、そのためにある創造の感覚なのだから』
 
うーんわかるようで、わかっていないようで。。

神様のお告げ?

さっき犬と散歩してたら
白い長い眉毛がつりあがったおじいさんが
とよもになにか話しかけてくる。
えっ?と聞き返すと
Don’t let him pull around.
犬にひっぱりまわされるなって
みたいな事をマジな顔で言って、そのあと
You are the boss
といってさっていった。。。
とよもが、犬が行く方にいかせたり、匂いかいでひっぱるの
そのままにさせてたからだとおもうけど。
なんか、自分の人生に神様からお告げを頂いたような気分。。。
そのあと、たまにみる雲 黒斎サンのブログを見ると
「思考は現実化する」って話をワンコネタでやってみよーや』
というのがあって、「現実認識を担当する自分(主人)」と「思考と感情を司る、忠犬バディ」
の話しがなんかさっきのおじいさんのことばとつながった。
http://blog.goo.ne.jp/namagusabose/e/abfcea3f82cf759c9d0ef4c683a92c94
つまり、思考と感情にふりまわされてる、自分。
すごい!

やりたいほうだい

みっしゅ、一回ふとんのり許したらもう
やりたいほうだい

昨日雨の中出かけたとき、左手で傘さしてて、風が強くて傘がゆれたので
右手で傘持ってるじぶんの左手つかんだとき(両手で傘を持ったということ)左手に自分の手ではない手が、重なったと感じられた、えっ!なにこれ!こんなんはじめて。
そしてそれから、ラーマクリシュナの寺に行って,ラーマクリシュナの一番弟子の、ベベカナンダのお誕生日に参加して、スワミジに挨拶したら『おおータラが来た、あなたはその名前憶えておきなさいよ』って、また頭ぐりぐりされた。
寺まではじめて自力でいったので、反対方向のバスに乗ったりして時間ロス。
ちゃんと545のバスでいける調べて行ったにもかかわらず、運転手にこのバスはそこにはいかないよ544だよといわれ、時刻表見ると544は1時間に一本しかない。。それだともうまにあわないから、帰るしか無いか〜。
そのとき次の545のバスが来て、運転手さんがターバン巻いたインド人だったから、これでたすかった!となぜか思って、ここにいきますか?ときいたら。静かに『行くよ』と。そのうえチケットの機械が壊れてたので、『はらわなくてもいいよ』。
やっとお寺について誕生日のお祈りみたいなのの最後に間に合って、そのあと無料のインド料理をみんなにふるまってた、配給みたいにお皿をだして、並んだ食べ物のまえにいくと、どんどん盛り合わせくれる、デザートまであって、これがみんなの寄付でまかなわれてるんだなぁ今度はお昼ごはん代くらい寄付しよ。

かきとタラ

海のほうから、帰ってきたうさぎとねこのお母さんが牡蠣を買ってきてくれた。ふたの閉まってる牡蠣は中に海水を含んでるのでそのままでも1週間くらい生きてるらしい。
それをナイフでこじあけて、レモンと黒コショウで食べる。
これって、生きてるまま食べてるってことや。。。

溺愛されてるウサギはお母さんが帰ってくると、部屋の中を走ったり、椅子やテーブル飛びに乗ったり、確実にとよもと二人の時とは態度がちがい、喜んでるかんじがわかった。
抱き方も、お尻をくりっとなでなから抱えるといいよと、見せてくれた。
ほうほうほう大人しく抱かれてる。
うさぎって、猫より敏感で、危険意識が強い(ちょっとのことでも、とびあがってびっくりしする)のは、自然の中ではいつも危険にさらされているかららしい。
気が休まらない人生かもなぁ。
昨日は友達が、ラーマクリシュナのお寺?につれていってくれてそこの一番偉い、スワミジ(スワミは男性のお坊さんでジがつけば偉い人らしいです)に、日曜に勉強会があるからまた来なさいと、頭をくりぐりなでられて、びっくり。
あたまをなでられたことなんて、子供の時にもそんなになかったもんなぁ。それでスワミジは、『私はあなたんことをタラと呼びましょう』と、名前までもらった。
タラってしらべてみるとヒンディー語で星という意味で、地上から見ると美しく輝いているけど、本来の姿は自己燃焼する灼熱のエネルギーの珠。穏やかな美しい輝きは安らぎを、絶え間ない燃焼はすべての生命を奮い立たせる核。そういうふたつのエネルギーをもっているのがタラらしい。素敵すぎる。

そうかー

今朝、友達のブログで今起こってる心の変化の事読んで、とよもがここずっと考えてることとすごく似ていて、自分でなく他の人かそのことを表現してるの読んだらすごいすっきり納得できた。
そのあとすぐに、いつも読んでる阿部敏郎さんのブログをみたら。
以下抜粋
真実の態度とは、痛みが消えるという期待(幸せへの憧れ)を生きることではなく、痛みは消えないという事実を認めた上で、そのあるがままにくつろぐ、この態度こそが「あるがまの自分を認める」ということです。
いまだにあるがままの自分を認められない人の心の根底には、いつかこの痛みは消えてなくなるはずなのに、いまはまだ自分の一部になっている、だから私は自分を認められないという思いがあります。
繰り返しますが、痛みは、苦しみ、悲しみ、怖れ、嫉妬、罪悪感、不安、無気力、怒り、貪欲、攻撃性などの形をとって顕れてきます。
そのような自分は認められないと思っていませんか。
さてそれでは、ダメ押しの悲しいお知らせです。
人生は苦しみである
我々は、決して幸せにはなれない
以上!!!
もしあなたがこの真実を心底から認めたら、あなたの人生は大きく変わります。
幻想から真実にシフトするのです。
でも人は相変わらず希望を持ち、また新しいやり方を探し出します。
世の中にこんなに沢山の「幸せになるアイテム」があるのは、人々が、痛みがなくなれば幸せになれるという幻想を持ち続けているからであり、提供する側も同じ錯覚の中にいます。
あるがままの事実に、あるがままの自分が関わっていく。
そこからしかリアルな成長はありません。
「あるがままを相手にしなければ、リアルな展開はない」 向禅師
まったく同感です。
このような希望を奪うアプローチはいつも否定されてきました。
そうやってまた新たな希望の情報が社会を覆うのです。
決してどこにも行き着かないことに、もうそろそろ気づくべきです。
安らぎは痛みや怖れを手放した結果ではなく、むしろ希望や期待を手放した時に訪れます。
その瞬間、抱えていた重荷が消え去り、このリアルな痛みの背後に、無条件の喜びと価値を見出すのです。
僕たちの本当の精神的成長は、幸福を追求することではなく、幸福への希望を捨てきった時に顕れるという、なんとも皮肉な話をさせてもらいました。
抜粋おわり
そうか、じぶんのやなとこもそのままもってたらえんや。
いい人になりたいなぁとおもうより、やなじぶんもいててそれでええんや
ああーー今こころがざわざわしてきてる、それでいい(なんかくるしい)。

夜中の2時に

ペットシッターするときは、その家に泊まってそこで生活する。
大きなお屋敷で一人と猫。犬。
この前の家でなんか不思議なことが色々起こった。
最初の日は家族の人がいて、とよもはおおきな寝室に寝てもいいよといわれて
寝たら、夜中にラジオつきのアラームクロックが、混線したようなじじじーーっていう音で起こされた、でもラジオのスイッチはオフになぅてる、その夜2回くらいもっと大きな音がなったので
コンセント抜いて寝た。
家主さんに聞いたけど、ラジオつきのアラームクロックずっと使ってるけど、そんなこといままでなかったよと。
翌日みんなが出かけてしまった後に、二階の寝室に入る一歩前に、大きなネズミが結構な数ざざざーって
とよもの気配を感じて逃げた音がした。えええー床下にネズミ?ぽっさむ?
でも家族に人が帰って来たとき聞いたら、ねずみも、ポッサムも床下なんかにいたことないよと。
数日後
ぴーんぽーーん、。玄関チャイムのおとが、iPhone見ると夜中の2じ。
こんな時間に誰がチャイムならすのか、と怖くなったけど寒いので下に下りて確認する勇気もなくそのまま寝た。
だいぶたってから、夜中に、日本で下校時になるきんこんかーーこん、かんこんきんこーん
っていうチャイムがまたなった。夜中の2時。
海外にいる家主さんから電話があったとき、そのこといったら、玄関チャイムはもう長い間壊れて,スイッチもオフにしてあるよと。
なにも、とよもには見えなかったけどきっと何かがここいたんだろうなぁ。
でも不思議に恐怖感はなかった、いやなかんじもしなかった。

きーつの導き

最近さむいせいか、おっさんみっしゅがやたらくっついてくる。
それですごいいきおいで、頭突きしてきてよだれをぽとぽと。
机の上できーつが鼻でわらってる。
このまえ90才の家主のおじいさんと一緒にタウンホールにコンサート見に行った帰り、いろいろおじいさんのこと聞いてて、ふと会話がとぎれたあとに
『きみはねこがいてくれたから、家にきたんだよね、猫がつれてきたんだね』といった。
以前住んでたどくだみ壮の取り壊しがきまり、当時きーつがいて市内で猫と一緒に暮らせる物件はほとんどなかった、なので市内からとおい田舎暮らしをすることにきめた。
おじいさんが、猫がわたしを連れて来たというところに、なんだかおじいさんがわたしが来たこと嬉しいんだよというてるようにきこえたから、ちょとこころがジーンとした。